【人獣共通感染症】猫の爪に潜む判定困難な感染症 ネコひっかき病
知っていますか? 意外に多い動物からうつる病気【7】
私がタイのエイズ施設「パバナプ寺」(参考:「差別される病 2002年タイにて」)でボランティアをしていた頃、何度も自分に言い聞かせていた言葉が「郷に入っては郷に従え」でした。この施設には世界中から医療者のボランティアが集まってきていたため共通言語は英語。そこで、同僚たちとはこのことわざの英語版「When in Rome, do as the Romans do」を“合言葉”にしていました。
押し寄せる見学者にエイズ患者は「マイ・ペンライ」
なぜこのことわざを何度も反すうしなければならなかったのか。それはその施設の「衛生管理」が日本の常識とかけ離れていたからです。さらに、最も問題だったのは、見学に来た団体客を平気で重症病棟に案内していたことです。これは衛生管理よりもむしろプライバシー侵害が問題です。この施設は「世界最大のエイズホスピス」と言われていて、多い日は1日数百人もの見学者がタイ全土から観光バスで来ていました。施設側からすると、エイズ患者を見学することで慈悲の思いを持ってもらい寄付をもらえれば結果として患者さんの利益になるという考えだったのですが、これは我々外国人からすると到底受け入れられるものではありません。実際、自己主張の強い欧米人ボランティアは施設側に強く抗議をしました。結果は、見学がなくなるどころか、「正論」を主張した欧米人が施設を追い出される結末となりました。
私自身も、もちろんこの事態を黙って見てはいられません。欧米人のように施設の人間に直接正論を振りかざすのではなく、患者さんたちにこの見学をやめてほしいと直接意思表示してもらうのがいいのではないかと考えました。そして、何人もの患者さんに話をしたのですが、意外なことに、患者さんたちは「マイ・ペンライ(かまわないよ)」と言うのです。こうなると、見学者を病棟に入れてはいけない、というのが現実味のない単なる理想論となってしまいます。重症患者さんのケアをしているときに数十人の団体客が病室に入ってくるとその度に怒りの気持ちが湧いてきます。そこで「郷に入っては郷に従え」という言葉を思い出し自分を落ち着かせなければならなかったのです。
この施設では病棟に入ってくるのはヒトだけではありません。犬や猫も入ってきます。本シリーズで繰り返しているように犬や猫はさまざまな病原体を保有しています。しかし一方では、前回(「感染リスクもあるが犬を飼うと長生きの利点も?!」)述べた「動物療法」という考え方もあり、特に犬は動物療法に最も適した動物と言われています。けれども猫は、ときにそういうわけにはいきません。
エイズ患者のいるところに猫が……。医療者ならこれを聞いただけで“卒倒”するかもしれません。猫が保有する感染症は多数あり、なかでもトキソプラズマはエイズ発症の基準となる指標23疾患のひとつにもなっているからです。エイズ患者が猫と一緒にいるところを見過ごすなんて死期を早めるつもりなのかと、医療者ならそう考えます。ですが、理屈と実際は異なります。当時、私は下手なタイ語を駆使して何度も患者さんに猫の危険性を訴えましたが、やはり返ってくる言葉は「マイ・ペンライ」。もっとも、当時のタイではまだ抗HIV薬が使えませんでしたから、施設に入るということは「死へのモラトリアム」を意味していたわけで、残り短い時間をかわいい猫と過ごしたいという気持ちはよく分かります。
猫はひっかくもの、だが危険性の理解を
そのトキソプラズマについてはいずれ取り上げるとして、今回は「ネコひっかき病」を紹介します。一度聞けば二度と忘れない名前のこの感染症は、免疫能が正常であれば自然治癒することが多く、前々回(「犬をベッドにあげてはいけない二つの理由」)紹介した「パスツレラ」と同様、複数種の抗菌薬が奏功しますから、健常人に感染してもあまり問題になることはありません。
ですが、原因不明の発熱、倦怠(けんたい)感、リンパ節腫脹(しゅちょう)などに苦しめられることもあります。自然治癒するとしても1~2カ月続くこともあり、感染すると「がんやHIV感染ではないか」と考え、治癒してからもドクターショッピングを繰り返す人がいます。このシリーズで繰り返し述べているように、風邪症状で受診したときの問診で「ペットは飼っていますか? 動物に触れたことは?」と聞かれるのはこういった感染症もあるからです。
そして私の経験上、犬に比べると猫に引っかかれたことを重要視している患者さんはあまり多くありません。その最大の理由は、おそらく猫の場合は頻繁に引っかかれていて、慣れてしまっているからでしょう。ですが、危険性はきちんと理解すべきです。猫が嫌がったとしても爪をマメに切っておくことは大切ですし、場合によっては爪の除去を獣医さんと相談すべきこともあります。
免疫能が低下している人は猫の飼育をやめるべし
猫からも犬からもうつる感染症はたくさんありますが、ネコひっかき病は名前が示す通り、猫からが圧倒的多数です。犬からの感染はさほど多くありません。ヒトからヒトへの感染はないとされています。そして猫から猫への感染はノミが媒介します。この感染症は暖かい地方に目立ち、日本国内では西日本に多いという特徴があります。その理由はおそらく暖かい地方だとノミが繁殖しやすいからでしょう。
ネコひっかき病の病原体はバルトネラ属と呼ばれる細菌で、グラム陰性桿菌(かんきん=グラム染色でピンクに染まる細長い細菌)です。しかし、前々回紹介したパスツレラとは異なり、うみを出した状態で患者さんが受診することはほとんどなく、直接顕微鏡で観察することは通常はできません。血液検査で調べることになりますが、バルトネラを検出するのは技術的には可能なものの、日常の臨床でおこなえる検査ではないために、実際には疑えばこの病原体に効果があると考えられる抗菌薬を用いることになります。
ということは、確定診断がつかないまま治療されているケースがかなりあるということになります。実際、ネコひっかき病の罹患(りかん)数について国内には信頼できるデータがありません。海外のデータを見てみると、全米では年間2万2000人が感染し、そのうち2000人が入院しています。特に小児は入院を要するケースが多いとされています。また、成人は重症化が少ないため医療機関を受診しないことも多々あり、米国でも実際の感染者はもっと多いはずだと指摘されています。もちろん重症化が少ないのは健常人に対してのみ言えることであり、免疫能が低下していると考えられるHIV陽性で治療を受けていない人が猫を飼育するのはやめるべきです。
そして、免疫能が低下しているのはHIV陽性者だけではありません。高齢者、糖尿病、アルコール依存症の人、抗がん剤治療を受けている人などいろいろな人が相当します。
もしもあなたやあなたの家族が猫を飼っているとすれば、その猫の爪、もっと短く切る必要はないでしょうか?
http://mainichi.jp/…/…/articles/20180330/med/00m/010/023000c